H19.5.25 長くブログをお休みしていましてすみませんでした。クラウドの考えを詳細にお示しさせて頂こうと、2ページに亘り記述しましたが、本来ならブログで書き込むべきものまで載せてしまい反省しています。皆様に、ご理解頂こうと考えれば考えるほど付け加えたくなり、接続詞や文脈がおかしくなってしまい余計にお分かり難いのでは?と懊悩しつつ自分の頭を叩いています!このページが、かなり重くなって来てしまいましたので、新しいページを作ります!少々お時間を頂戴させて下さい。
H19.3.26 今日、少年補導員の研修で半田市にある「県立ならわ学園」に行って来ました。この施設は、親から虐待を受けたり、不登校やひきこもりなど社会生活に今、適応出来ていない子ども達の支援を目的として運営されています。園長先生のお話は、どれも呼吸をすることを忘れてしまうほど、子ども達が可哀想で、胸が詰り息苦しくなりました。
その中でも特に強い衝撃を受けたのは、6年生の女の子が実の父親から性的虐待を受けて妊娠してしまい、病院からの通報で保護され施設に連れて来られたお話でした。その子は、しばらくの間、心と体の治療受けていましたが冷静さを少し取り戻すと、妹のことが心配になり(妹も私と同じ目に遭ってしまうと*)家に帰ったそうです。しかし、何も変わることなく、また同じことの繰り返しで、とうとう耐えられなくなって、マンションから飛び降り自殺しようとし、また施設に逆戻りしてしまいました*。母親は状況を知りつつも、父親を庇っていましたが、その女の子が父親を訴える決心をしましたら、やっと離婚をする気持ちになったそうです。その結果、裁判所の判決で8年の実刑が言い渡され服役しています。(この人の言い分は仕事が上手く行かずストレスが溜まっていたとの理由でした*)
今回はそういう可哀想な子ども達が実際に目の前で存在し触れ合う距離にいるものですから、本当に身につまされました。他にも様々な子ども達がいまして、母親に階段から突き落とされ腕を骨折して放置された為、変形し腕が上がらなくなってしまった男の子やタバコの火を体に何十箇所も母親からつけられた女の子もいました。でも、園長先生曰く、殆どの子ども達はどんなに酷いことをされても、「親が大好き」で家に帰りたがるのだそうです*と悲しみを押し殺すようにおっしゃっていました*私も本当に、いじらしく思いましたし、また小さな子ども達が、どうしてこんな不幸な目に遭わなければいけないのか?と考えますと不憫でなりませんでした。
お話の後、園長先生が自ら宿舎施設を案内して下さり、教室や遊戯室、そして保護者と一緒に生活が出来る部屋があったり、食事を自分達で作れる調理室も見せて下さいました。一階の食堂に行くと丁度、子ども達がお昼ご飯を食べていました。食事中だった為、挨拶をするだけで会話は殆ど出来ませんでしたが、可愛い子ども達(中学3年生までの施設です。)ばかりで、挨拶もしっかりしてくれました。小柄な子が多いなあ?と印象を受けていましたら、虐待を受けている子ども達は、成長ホルモンが停止してしまい、食べても大きくならないのだそうです!中学1.2年生でも、小学3.4年生の身長しかないのだと、同行した少年課の課長様に教えて頂きました。また更に驚きましたのは、体の痛みすらも自ら止めてしまい、感じない子どもや後から痛みを訴えることもあるそうです。心の痛みは体をも蝕んでしまうものですね*
園長先生はもう二十数年この施設に携わっておられますが、基本的には、どんな家庭状況であっても「子どもは親元で暮らしていた方が良い」との考えで来ましたが、近年には、この親には子どもを帰さない方が良いのではないか?と思うことが、何度かあったそうです*皆さんは、子どもに対する虐待の原因や意味をどの様に捉えていらっしゃいますか?虐待をしてしまう親達は必ずといっていい程、自分自身も親から虐待を受けた経験を口にするそうです!人間は、同類に哀れ見るものと中国の歴史から私は学びましたが、現在の日本社会には当て嵌まらないようです*親が忙しかったり悩みがある時に、偶々子どもが愚図つくと昔の出来事が蘇り、「フラッシュバック」して、感情のコントロールを失ってしまうのだそうです。
情報社会に住む私達は時間に左右されない「ゆとり」や、お金に動かされない「誇り」を何処かに置き忘れて来てしまい、肉親や子どもがいてくれる温かい「安らぎ」を感じる余裕すら、見失っているのかも知れません。最近の子どもの悲惨なニュースの報道を見ていても、何か私は違和感を感じています。それは親がテレビの記者会見を承諾して冷静に胸の内をお話出来たり、事件発生直後にも拘らず手紙や手記を発表出来てしまうことです!私の心が汚れているからかも知れませんが、どうしても理解出来ませんし、懐疑的に映ってしまうのです。私には子どもがいませんが、もし私の子どもが酷い目に合い死んでしまったら、とても人前で話など出来ないでしょうし、増して、テレビに映ることなどありえません。絶望の淵に追いやられて打ち拉がれるか、または、感情を抑えきれずに理性を失って爆発してしまうと思います。
昔が全て良いとは申し上げませんが、少なくとも不幸な目に遭ってしまった人に対しては「そっとしておいてあげなさい」とか「可哀想だから触れないで」という暗黙の了解や規範があった様に思います。また人の不幸の内側を知ろうとする心は卑しい行いとさえ言われていました。悲惨で不幸なことが事件になって、それを取材する記者が群がり、マスコミが報道することで世間の感心を呼び起こし騒ぎますが、何の教訓にも活かされず単なる噂話で終わり、また繰り返します。ある心理学者が、こういう現象をこんなことを言って説明していました! とんでもない事や、悲惨な事件を見聞きして、それを仲間内や誰かと話の話題にすることで、自分達が「安心を得る」ことが出来るのだそうです!人の不幸で安心するとは何たることでしょう?情けなくなります*
いつも、何か社会問題や事件が起こる度に思うのですが、根っこは殆ど皆大体同じで人の「欲」「妬み」「嫉妬」など、小さな人間の悪い心から取り返すことの出来ない大きな事件に発展してしまいます。ある会社の社長様に伺ったことがあるのですが、人間は年齢を重ね重要な立場になればなるほど、トラブルの処理や解決に迫られ体の調子を崩して病気に掛かり易くなる。では私はどの様にそれを乗り越えて来たのかと言うと、気晴らしに、「思い切り遊ぶ」んだよ!と教えて下さいました。お金が掛からないことなら尚更良いと!全く別の世界で何もかも忘れ、ただ目の前にあることだけに熱中することによって、一時的にでも心を開放してやらないと、いつかハチキレて病気になってしまったり、陰湿で悪いことしか考えなくなる!と教えて下さいました。
話を戻しますが、日本はある物事を一括りにしてレッテルを貼り、評価や解決法を決めつけ結論を早く出したいがあまり「新鮮な情報や新しい言葉」にすがりたいか?の様に私は感じています。それは虐待・イジメ・DV・チック・セクハラ・不登校・家庭内暴力・不良・非行・カウンセリング・etc どれも一括りにしてはいけない問題です。例えば非行です!非行に走ってしまうのも千差万別で虐待を受けていて、その仕返しの為に万引きや暴力事件を起こしてしまう子ども。友達が欲しくて寂しさのあまり悪いことに手を染めてしまう子ども。保護者の甘やかし過ぎによるもの(欲しい物を何でも買い与える)。ただのカッコ良さや虚勢心を翳し見せたくてついやってしまった子どもなど色んなケースがあります。どれも対応は一義的では通用しません。また解決法がないこともありえます。(自分自身で乗り越えて行かなければいけないことの方が多いと思いますし、自分の為に乗り越えて欲しいです。)非行だけではなく、どの問題もそうだと思いますが、最終的には自身の捉え方や考え方で何とかしていかなければならないのですから*私もある苦境に陥った時に、ある方からこんなことを教えていただきました!日本ではどん底に陥った人に対して、「これ以上悪いことは無いから後は上がるだけだよ」なんてと慰めるけど、フランスでは「どうせここま来たら、もっと下まで掘って見てみよう!何か良い物が見つけられるかもよ?」と言うそうです。面白いですよね!私は結構こういう考え方が好きです。
先日、大変お世話になっているアルペンの素晴らしい方から灰谷健次郎さんの本と、こんな美しい詩を送って頂きましたのでご紹介します。「 かなしいことがあったら ひとをうらまないこと かなしいことがあったら しばらくひとりぼっちになること かなしいことがあったら ひっそりとかんがえること 」とても身に沁みました*ありがとうございました。最近、高見ノッポさんの「ハーイ!グラスホッパー」を観ました。ノッポさんも子どもがいませんが、子ども達のことを真剣に考えている姿勢が尊敬出来てファンになりました。また子ども達を導く時に「カッコ良い!」という言葉をタイミングを見極め遣うところが私と似ていたり、挨拶の大切さを、とても重要視されていて「今の時代、気軽に大人が子どもに挨拶の声を掛け難い状況は間違っている!何とかしなければ*」というお考えに対しても全く同感です。危険があるから避けて通ることも一つの方法かも知れませんが、こういう危険性があるから、ただ止めるのではなく、危険性があるからこそ大人達が工夫をしたり、または知恵を絞り、いかに正しいこと「挨拶」が出来得る社会になるのか?を考えたいものです。私のスクールでも挨拶に対して一時期は、頻繁に起こる事件の為に躊躇してしまいましたが、今は声を大にして伝えています。挨拶は「私とあなたは、仲間です。よろしくね!」という意味です。おじいさんバッタより?(高見ノッポさん)
H19.3.6 長い話の後で、お疲れのこことお察し致しますが、お元気ですか?いつもすみません*私もこのブログを書き込んでいる時は、一心不乱になって集中している為、誰も近くに寄って来ません。また一区切りついた後には、放心状態になっていますので、スタッフに何か言われても全然記憶がないのです!笑 スタッフ曰くブログを書いている時、近くに寄らないのは、私の目が逝ってしまっているから怖いのだそうです。私は気を遣ってくれていると思っていたのですが、大きな勘違いでした*でも、長文の達成感に浸ってはいられません。頑張ります!
最近、事務局の外壁がペンキ屋さんのご好意で白く塗装され綺麗になりました。またそれに伴い看板を新しいマークに替えたりもしました。更に、私が昔取った杵柄で溶接をして屋根を造ったり、コンクリートを練りU字溝を修理したりして、やっと事務局らしくなりました!笑 今までは保護者様や子ども達から「倒れそうな事務局」とか「オンボロの家」などと言って頂いていたのですが、少しは事務局らしくなったと思います。(家賃4万円なので恵まれています*不平は言いません。)この前、看板を子ども達に見せましたら「カッコいい!」と言ってくれました。ある子どもは、私が造った屋根を褒めてくれ、お母さんに「ヤスユキ先生は何でもつくれる!」と言って感動していたと、ご報告して下さいました。ありがとう!でも何でも作れる訳ではないんです。正確には、何でも「やりたがる」が正しいと思います。業者さんにお頼みすれば、きっと見栄えも良く綺麗で尚且つ機能的に造って下さるのですが、私は多少歪でも魂が篭っているみたいで、自分で作るのが好きなのです。手作りって良いですよね*そういえば、バレンタインデーの時に手作りチョコレートを何個か頂きましたが、一生懸命御作り下さったことが、本当に味から伝わり気持ちがジーンとして、心に溶けて行きました。本当にありがとうございました。
そんな優しさの余韻に浸りつつ、作業着のツナギを着て事務局を修理していたある朝に、足の悪いお歳を召した「ホームレス」(この表現が私は嫌いなのですが?)の方が、事務局前の自販機の下を覗き込み、必死にお金を探しておられました。地面が油で黒く、汚れているにも拘らず何回も何回も顔をくっ付けておられましたが、何も見つけることが出来なかったみたいで、足を引きずりながら帰りかけてみえました。私は、その様子をじっと見つめていては失礼だと思い、時々さり気なく振り返り自然な素振りで見ていましたが、足を引きずり帰られるお姿に居た堪れなくなり、私の朝食(パンとコーヒー牛乳)を持って行き「すみません、おやっさん!これオレの朝飯だけど良かったらどうぞ?」と言うと、笑顔を向けて下さり「ありがとうございます。ありがとうございました。」と二度おっしゃって頂きました。
私は、こういう方々を一括りにして、レッテルを貼る様なことは絶対に断固拒否します。それが、たとえ差別用語を言い替えたとしても(昔、浮浪者や乞食〜今、ホームレス)受け入れられません。何故なら言葉の表現は優しく綺麗なものに置き換えられていても、社会や意識は何も変わっていない?いや、むしろ豊かになった分、個人主義を通り越し利己主義に走り、弱者に対してより無関心になりつつあると思うからです。世間では、差別用語はいけないと盛んに叫ばれていますが、私には空しく聞こえてしまいます。仏造って魂入れずではありませんが、多分そこには気持ちが入って無いと感じてしまうからなのでしよう?例えば「ちびくろ・さんぼ」という絵本が差別だと言い、店頭から撤去されて、差し障りのなさそうな?タイトルと内容に変更されてしまいました! そして直ぐに、やっぱり差別ではないと、また店頭に置いてあります?安易ですよね!(あの絵本の、何処が黒人の方々を蔑む内容なのでしょう?子どもの時、私はあの少年になりたくて羨むくらいでした。)私達、日本人に黒人の方を差別する意識など微塵も無いにも拘らずです。かと言ってこちらはそうでも、無意識に相手の黒人の方を傷ついているのであれば、全く別な話で反省し改めなければいけませんが・・・。また、アメリカの映画の中で登場する東洋人(日本人も含め)は、メガネを掛け極端に歯が出て、必要以上にお辞儀をする、品の無い滑稽なイメージで演出されています。そういうことも相手に対する気持ちや心が無いと思いますが、そういったことで人間性が見えてしまいます。
イメージなんて、それくらい実態と乖離してしまうものなんですよね! ある大好きな叔母さんが、名古屋の白川公園に行った時、こんな光景を見たとお話しして下さいました。それは、美術館に訪れていた小学生の団体の引率者が、子ども達に向かって、「あっちに行くと怖いから、絶対に行ってはいけません!」と、仕方なく高速道路の下に暮らしておられる人達の方を指差しながら注意していたのだそうです!優しい叔母さんは言いました。もっと良い伝え方は沢山あるのに酷いわ?「あちらに行くと、ご迷惑が掛かってしまうとか、何とか言えばいいのにねえ?」と、そして「あれではホームレスの人達は、皆怖い人達だと思ってしまう!全然怖くないのに*」と残念がっていました。大人の伝え方ひとつで、イメージが出来上がってしまう本当の意味の怖さ(目に見える表面的なことよりも、見えない心の意識)を認識しなければいけません。潜在する無知の恐怖は暴力を惹き起こす要因なのではないのでしょうか?これは、そういうことを示す、よい例だと思います。
本当に大切なことは、一括りのイメージ的なもので、その人を判断したり排斥しようとするのではなく、「皆同じ人間」なんだと助け合う心を育むべきです。私も偉そうなことを申し上げつつも、身近で小さなことしか出来ていないので、賢人から謗りを受けてしまうのかも知れませんが、正しいと思うことや理想を私は回り道をしてでも到達する努力を続けたいと思います。
H19.1.12 明けまして、おめでとうございます。皆様は良いお正月だったでしょうか?今年も宜しくお願い致します。 年明けから真剣な話になり恐縮ですが、私は、一泊二日で念願の広島に行き、広島平和記念資料館を見てきました。ここ数年は、体調不良もあり(味覚障害の疾患!笑)大した旅行も出来なかったのですが、今回は、意を決して行って来ました。正月でも一泊 7.000円のホテルを見つけました!どうして広島かと申しますと、それは何年も前(2002年8月6日)にテレビで、秋葉忠利広島市長の原爆死没者追悼式典の挨拶(平和宣言)をお聴きしまして、恥ずかしいのですが嗚咽してしまい、琴線に触れた事があったからです。その時、絶対にいつか広島に行ってみようと決めていました。
広島という町は美しい川があり、一つの本流から六本の支流に分かれている為、橋がたくさんありました。また、道幅も広く整備され路面電車も走っていまして情緒溢れる、とても綺麗な町でした。 1月2日から資料館が開館されるとの事でありましたので、私は2日の日になら混んでいなくて、ゆっくり拝見させて頂けると思ったのですが、甘い考えでした。お正月にも拘らず凄い人で思いの外、外国の方がたくさんお見えになっていたのには、少しビックリしました。 また入館料が大人は50円ということも、更に驚いたのですが、それと同時に、500円でも1.000円でも、もっと徴収して頂いて、原爆被災者の救済や、核廃絶の活動に充てて下されば良いのに?と、私は浅はかなことを考えてしまいました。きっと、どのお国の方々にも幅広く、たくさんの人に何回も見てもらい、戦争の愚かさや原爆の恐ろしさを知って頂きたいとの、お考えなのかも知れません。
拝見させて頂いた中で特に感じたことは、「人間は本当に恐ろしいことをするものだ*」と魂の底から思い、身体が震えるぐらい様々な感情が入り乱れてしまいました。それは、言い表すことの出来ない「悲しみと怒り」、そして経験したことの無い「静寂と虚無感」であったりもしたのです。 余りにも想像を絶する現実に直面しますと、心の中が空っぽの「空白」になるものですね*人間の「相手を思いやる優しさ」は、可哀想な、その相手に自分の身を置くことで(成り代る想像力)芽生える感情であると思いますが、この原爆被災者の方々に関しましては、想像するよりも前に、目頭が熱くなったり、胸が急激に縮んだかと思えば、また張り裂け掻き毟られるという様な感覚が先に襲って来てしまい、とても冷静な気持ちではいられませんでした。
去年の8月に、あるクラウドの生徒から、こんな質問を受けたことがありました。それは「先生〜何で、アメリカと日本は仲良く出来るの?アメリカは原爆を落としたんでしょ?でも日本はアメリカのこと嫌いじゃあないよね?」どうも、その子は原爆のドラマをテレビで観たらしいのです。そこで、私は「どうしてそう思ったの?」と聞くと以前、中国で反日感情が爆発して、大使館を襲撃している (靖国問題や歴史教科書問題、日本人留学生の破廉恥な行いなどから・・・)ニュース番組を見た時、お母さんに聞いて見たことがあったそうです。「お母さん、中国はどうして日本が嫌いなの?」と、聞いたら「昔、日本は戦争で、中国の人達に酷いことをしてしまったからよ*」と教えて貰ったとのことでした。お母様には伺っておりませんので、私の想像も入っています。そういうことを知った後、原爆の番組を観たものですから、子供なりに不思議に思ったのでしょうね!そういえば、私も高校生の時に、この事について深く考えたことがありました。クラウドの子どもは、まだ高学年なのに凄いです!その時、私なりに考え至っていたことを、出来るだけ分かり易く、その子どもに話しました。
「例えば、あなたの見ている目の前で、とても大切な人が*誰か*に酷いことをされたり、(銃剣で刺されたり、ガソリンをかけて燃やされたり)殺されてしまったらどう思う?それが中国の人達だと思うよ!また、ある日突然、空の上から爆弾(原爆)が落ちて来て、とても大切な人が殺されたら(皮膚が爛れ、目が飛び出てしまうなど)どう思う?これが日本だよ!どちらも比べることが出来ない酷いことなんだけれども、相手の顔が見えるのか、見えないのかは大きな違いになるんじゃあないのかなあ?どう?全部人間がした事だけど、物か人かで憎しみが変わってくるのかも知れないね? どちらも忘れることなど出来ないけどね*」と伝えました。また更に、「でも先生の知っていることや、感じたことが全てではないし、全部正しいとは思わないから、歴史の背景(その時の様子)や両方の国(その国の人になったつもりで)から見てみたり、自分で調べて色んな意見をたくさんの人から教えて貰うと良いよね?そうすると本当のこと(真実)が見えてきたり、また、自分がどういう人間で、どういう考え方をするのか分かったりもするんだよ!」と付け加えました。するとその子は真剣な眼差しを私に向けてくれ、澄んだ綺麗な瞳でニッコリ笑って頷いていました*
資料館の話に戻しますが、ボランティアの方がお教え下さった路面電車の運営をしている民間会社「広島電鉄」のお話をさせて頂きます。 原爆が投下され、町が6時間以上も燃え続き、壊滅的な状況であったにも拘らず徹夜で作業を行い、僅か3日で復旧させたそうです! その時の車掌は、16歳の女学生だったそうですが、朝、上司から御釣りが入っていない空のバックを渡され「今日は、お金を持って無い人からは貰わなくていいよ*」と伝えたそうです。何て優しい言葉でしょう!私は胸が詰りました。被災者の方々は、焼け野原の中で絶望の淵にいる時、この電車が走っている姿を見て、勇気と希望を持たれました。また今でも、この電車は走っていまして黒字経営だそうです!広島の皆様に愛され親しまれていることが良く分かります。 ボランティアの方が最後に「だから広島の人は皆、この市電が好きなんです*」とおっしゃっていました。このお話をお聞きした帰り道に改めて電車を見ることが出来ましたが、何か愛おしく感じられ撫でてあげたい気持ちになりました。
もうひとつ広島の皆様に希望を与えた物が夾竹桃(キョウチクトウ)の花(赤と白)です。原爆が落とされた場所には、放射能の影響で、100年間は草木ひとつ生えないと言われていましたが、次の年の夏には綺麗な花を咲かせて復興の希望を与えたとのことでした。しかし、赤の花に対しては、「炎を想い起こしてしまう」と、人によっては忌み嫌われたとも、お教え頂きました。 花には何一つ罪はありませんが、その人のお気持ちはお察し出来ます*
帰り道のタクシーの中で、広島の夜の町を眺めながら、私は、小学生(5年生)の頃にあった、ある出来事を想い浮かべていました。それは、当時「キングコング」という映画が話題になっていまして、仲の良いサッカー部の友達、5.6人と名古屋駅前にある映画館「毎日ホール」へ観に行こうということになったのです。ところが出掛ける寸前に、担任の先生に知れることとなり、中止になってしまいました。私は、その先生に職員室へ呼び出され、「学級委員が、連区外に子供だけで行ってはいけないことは知っているのに、みんなを誘って規則を破らせようとするとは何事だ!規則を守らせるのが、お前のすることだろう!」とキツク注意を受けたのです。ご尤もです!すみません。ビンタ1発!ゲンコツ1個!でした。しかしながら、私は、もう子供じゃあない!という意識と、どうしても観たいという欲求に駆られ、親友と二人で相談し、お前のお父さんは、学校の先生だから大丈夫だ!という変な理屈をつけて納得してました!笑 内緒で観に行ってしまったのです。
楽しく映画を観た(2回も観てしまいました!ふたりで、2回分の料金を取られるのではないか?ヒヤヒヤ心配しながら!笑)その帰り道に、駅前で大きな写真パネルを出して、何かしている人達がいました。その横を通り過ぎようとしましたら、呼び止められてしまい、何かと思ったら広島原爆のお話でした。 原爆写真の説明をひと通り受けた後、「広島の子ども達の為に、折り鶴を作って貰えませんか?」と頼まれたのです。 可愛い女の子が、病院のベットで横たわり笑っている写真を見せて頂きながら*私達は、悪いことしているという後ろめたさも手伝い、良いことをしなければと寒いなか一生懸命に鶴を折りましたが、折り終わると今度は、「募金もお願いします!」と言われてしまったのです。二人とも余分な、お金など殆ど持ち合わせてはいません!私達は、顔を見合わせてしまいました。当然、友達がいくらお金を持って来ているのかは知りません。
そこで私は、鶴を折ろうと親友を誘った手前、私だけで許してもらおうと、「友達はバス代しかないから出来ない」事を伝え、私が10円を募金しようとしましたら、「100円お願いします!」と言われたのです。100円を募金すれば、バスに乗っては帰れません。しかし、お断りする勇気が無く、100円を募金してしまったのです。
私の気持ちの中で、良い格好をしてしまった自分が情けないのと、不幸な人の為とはいえ、自分の力以上のことをしてしまう愚かさとが交差しながら、バスセンターまで親友と無言で歩きました。 (オレだけ歩いて帰ると言えば、友達をひとりで帰らせ寂しい思いをさせてしまうことや、二人とも歩いて帰れば、夜遅くなり友達が怒られることなどを考えめぐりながら?本当は、先生にまた知れて、叱られるのが嫌なだけだったのかも知れませんが・・・?) 何時、親友に言いだそうか?と迷っているうちに、バス停に着いてしまったので、遂に私は一人で歩く決心をして、親友に「オレ、お金が無いからバスには乗れない!」と打ち明けると、その親友は少し寂しそうな笑顔を向けながら、「いいよ、100円貸してあげる」と言ってくれたのです。私の落ち込みように、感じるものがあり、察していたのでしょうね*良い友達です。強がっていても、きっと私の心のどこかで、友達に甘えたい気持ちがあったと思います。
無事バスに乗車することが出来て、親友の優しさに感謝しつつも、私の心は沈んだ儘でした。こんなことを申し上げては、真面目な募金活動をされてみえる方々に失礼かと存じますが、その時に感じていたのは、今で言う 「フットインザ・ドアー」的な、(先ず断られない小さな要求を呑ませた後に、新たな大きい要求をすることなど) やり方に対して、何かおかしいと思いつつも、唯々諾々と従ってしまった自分が悔しかったり、また可哀想な人の為にしたことだからと、納得しようとしても出来ない自分が存在していたからだと思います。
そんな、ほろ苦い想いを残した経験が、「広島原爆」という印象の中にあったものですから、初めて訪れさせて頂きまして、色々な事が分かり、広島の方々に本当に申し訳ない気持ちになりました。 同時にまた、真実と申しましょうか?実態とかを知る為には、自身が先入観を持たず、その現場に行き、空気に触れて見ることが大切であると、身を以って痛感致しました。広島の人々は、飾らないお人柄と、一歩下がる日本的な優しさをもっておられ、特に今、忘れかけられている、謙虚で控え目な姿勢は、温かい陽射しを浴びるかの様に、私には感じられました。そう感じられた出来事を少し話させて下さい。
私が、ホテルで交通手段や道が分からずに、お尋ねしていた直後、見知らぬ現地の方からお声を掛けていただきました。その掛け方が「すいません*」と優しくおっしゃって頂いたのです! 私に、道を教えて下さろうとするにも拘らず、まるで、ご自分が教えを乞う様なお言葉でした。*親切丁寧に交通機関の説明をして下さり、また、早くて一番経済的な手段を探して頂いたのです。私が感謝するのは勿論ですが、感動すら覚えました。本当に本当に、ありがとうございました*資料館を出て、慰霊碑に祈りを捧げた後、原爆ドームを一周しようと、歩いていましたら、丁度裏側に差し掛かる所にも慰霊碑がありました。その慰霊碑を通り過ぎようとしましたら、遠く離れてお祈りをされてみえる、年老いたご婦人がおられました。私は、お祈りが終わるのを待とうと、立ち止まっていましたが、とても厳かな、お祈りをされて見える為、直ぐには終わらないことが分かりました。そこで私は、遠く離れたご婦人の、更に後ろを回り、頭を垂れながら通過させて頂きました。その時に「どうしてあのご婦人は、もっと近くでお祈りしないのだろう?」と、少し考えたのですが、広島の方々の資質や気質を感じていた私には、何となくですが理解が出来ました。それは何故か?お祈りは皆に見せる為のものではないし、また周りを気にして行うことでもないことや、誰かの為に何かして差し上げることは、自分自身が一歩前に出てしまうよりも、さり気無く影からそっと行うことであると、広島の方々から背中で教えて頂けた気がしています。
そういえば私は、あまり野球を観ませんが、以前に好きな監督がお二人いました。それは王監督と、古葉監督です。理由は、自身の監督としての功績を伏せて、常に選手の影日向になる姿勢が大好きで、私は好感を持てたのだと思います。選手が主役であるにも拘らず、選手以上に目立ち、自分の力で優秀な成績を収められたかの様な振る舞いは、私は、どうも好みません。(選手が育つには、時間が掛かりますので、監督が代わったからといって、本来劇的に強くなることは稀有です。 あるとすれば、大金を使った助っ人の確保やトレードによる物だと考えます。)前面に押し出る監督が多い中で、お二人は本当に立派な方だと、今でも尊敬しています。 当時は「広島東洋カープ・赤ヘル軍団」として人気を博し、一大旋風を巻き起こしました!強くなり、優勝を何回もしても古葉監督は驕ることなく、いつもテレビに映らない様に、ベンチの影から心配そうに選手を見守り、采配を揮っておられていたことを今懐かしく思い出しました。あの祈りを捧げておられたご婦人と古葉監督が、どこか重なります。王監督の尊敬するところは、戦い終わった相手に対する優しいご配慮です!また、過去の栄光に引きずられない、聡明で強い精神力も大きな魅力です。
今回の広島で体験した、そうした小さくて大きな事が、私にはとても価値があり、掛けがえの無い尊い思い出となりました。 でも、本音を申し上げれば、もっと早く多感で感受性豊かな年代に訪れたかったです。そうすれば、少しは今よりもマシな人間になれたかも知れません? 私の小学生の修学旅行は「登呂遺跡でした!」学ぶ為の旅行なのに、何も得ることが出来ませんでした。私が至らないだけですね!責任転嫁はいけません。最近の修学旅行は、ディズニーランドとかに行くみたいですね?楽しいでしょうが、何を得て学ぶのでしょう? 今年の夏休みにでも、クラウドの子ども達を誘って、広島に連れて行きたくなりました。十数年前も、一人旅(バイクでしました!)をして沖縄の「ひめゆりの塔」を訪れた時と広島とは何かが違っていましたが、それが今、分かりました! 相手が見える形か、見えない形かの違いだと思います。多分、あの中国のことをクラウドの子どもに話した違いですね?どちらも筆舌に、尽くし難い悲惨なことでしたが・・・。
最後に、秋葉忠利市長のお言葉で終わらせて頂きますが、全文を載せることは時間の関係上難しいので、私が要約した形でご紹介します。
2002年 平和宣言 57年前、この世の終わりを経験した被爆者、それ故に他の誰にもこんな思いをさせてはならないと、現世の平和を願い活動してきた被爆者にとって、再び辛く暑い夏が巡ってきました。一つには、暑さと共に当時の悲惨な記憶が蘇るからです。それ以上に辛いのは、その記憶が世界的に薄れつつあることです。恐ろしい実体験を持たない世界の国々は「忘れられた歴史は繰り返す」という言葉通り、核兵器保有や使用の可能性が高まっています。その傾向は昨年9.11以後、顕著になり、被爆者が訴えて来た憎しみと暴力、報復の連鎖を断ち切る和解の道は忘れ去られ、「今に見ていろ、俺の方が強いんだぞ」が世界の哲学になりつつあります。 その犠牲になるのは、圧倒的に女性・子ども・老人等の弱い立場の人達です。 ケネディ大統領は、地球の未来の為には、全ての人がお互いを愛する必要は無い、必要なのはお互いの違いに寛容であることだと述べました。 そうしたことが和解を導き、どんな小さなことでも協力を始めることが和解の意味なのです。また和解の心は過去を裁く事ではなく、人類の過ちを素直に受け止め、繰り返すことなく未来を創ることにあります。その為には、誠実に真実と向き合い知ることが大切です。 広島が目指す「万人の為の故郷」には豊かな記憶の森から流れ出る和解と、人道の川には理性と良心そして共感の船が行き交い、やがて希望と未来の海に到達します。そのことに触れて貰う為にも、アメリカの大統領が広島・長崎に訪れることを強く求めます。 アメリカ政府には自国の価値感を押し付けたり、世界の運命や人類を絶滅させる権限を、私たちは与えている訳ではありません。 何故なら、その主張をする権利を私たち世界市民が持っているからです。日本政府は日本国憲法第99条を遵守し、我が国を他の国と同じ様に、戦争の出来る普通の国にしないことを有します。そして、明日の子ども達の為に戦争を防ぐ責任を果すべきです。本日、私たち広島市民は57年前を想い起し人類共有の記憶を貴び平和と人道の世紀を創造することを誓い、全ての原爆犠牲者の御霊に心から哀悼の誠を捧げます。
私の拙い要約で、とても分かり難く、また主観的な部分も入り、正確ではないことを申し上げて置きます。平和公園の石碑に、「安らかに眠って下さい 過ちは繰り返しませぬから」と彫られていますが、広島市民が和解の意味を自ら気高い精神の上に立ち、人類から見た形で皆に示しています。広島市民を世界中に誇りたい気持ちで一杯です。和解と融和の精神は、時に自虐的な弱さに映ることもある様ですが、広島市民の内に秘めた信念や決意は、どんなことをされても決して屈っしない普遍的な、とても優しい「本物の強さ」だと思います。石碑に赤ペンキを塗られたり、ハンマーで壊されても、その精神は少しも揺るがないのではないのでしょうか*私は、またいつか人道の川と希望と未来の海に逢いに行き、祈りを捧げ自分自身と向き合いたいと想っています。
H18.11.10 クラウドカップ(約180名参加)も無事に終わり、あと2ヶ月で、また新しい年を迎えますね!早いものです。自分は変わらないつもりでいても、子ども達の成長を見ていますと、時の流れの早さを感じます。「変わる〜変わらない!」と言えば最近、私は16年間使用して来た、携帯会社を初めて換えてしまいました!安易に何事も変えることを好まない(最初の気持ちを大切にしたい想いからです。)私にとっては大事件でした!笑 基本料が安くなることも小さな理由の一つですが、「日本の携帯電話は高すぎるし、1兆円の利益があるにも拘らず、利用者に還元されていない!」と言う、某代表の発言や損?孫?笑(リスク)を承知で現状打破をしようとする強い気概を私は感じたからです。また準備不足で、マスコミや他社から沢山批判をされていることも、私の気持ちを駆り立てました!ショルダー型の大きな携帯電話を電波の繋がらない時から、使用させて頂いていましたので、一抹の寂しさはあったのですが、弱い立場の方が攻撃されている様に見えてしまい、私の本能の血が騒ぎ出したのです!笑!
でも、今だに変わらないことも沢山あります。例えば車です。もう13年目に入りました!可愛い愛車です?あまり大切にしていないのですが?そういえばこの前、高速道路でエンジンが止まってしまいました。・・・!笑えません*もっと変わってない物に、テレビがあります!ナント22年目です!初任給で奮発して購入しました*故障も時々しますが、観れています。電気屋さんに、「今は薄型で液晶テレビも安くなっているし、画像も綺麗ですよ!」と勧めて頂くこともありますが、まだ使えるテレビが可哀想で、換えることが出来ないのです*私の身体も故障ではないのですが、最近、少し衰えを感じてしまうときがあります。それはスポーツを続けてきたお陰で、今でも100メートルを12秒台前半で走れるのですが、何本も走ると次の日には足がガクガクします!笑 体脂肪率も変わらず 6.2を維持していてもです。外見的には同じに見えても、衰えは内から来るものですね*車と同じように、そろそろ気をつけてメンテナンスをまめにしなければいけません。自分の身体のことなど大切にしてこなかった私にとっては大きな変化と言えることでしょうか?
身体のことと言えば、また「空飛ぶオランダ人」ヨハン・クライフさんのお話になりますが、「今の子ども達や若い選手の身体について」こんな興味深いことをおっしゃっていました。「〜どうして若い選手がこれほど頻繁に怪我をするのか?わたしなど現役時代はウォームアップなどしなかった。ストレッチのやり方さえ知らず、あるものを何でも食べていたのに、滅多に怪我などしなかった。(ヤスユキもです!)では原因はいったいなんだろう?学校で運動する機会が減り、誰も石畳の上でサッカーをしなくなった。食べ物の好き嫌いが激しくなり(軟らかくて歯ごたえが無い物ばかりの食生活など)、自転車に乗って遠くまで行かない。芝生の上でしかサッカーをしないことなどが考えられる。このままで行くと、どんどん人間の身体はサッカー選手に限らず弱くなるだろう!」と・・・スポーツに怪我は付きものですが、私もクライフさんと同じ様に感じています。いくら準備運動や整理体操をして怪我の予防をしても、基の身体自体が弱ければ、何の意味もありません!最近は、ただ転んだだけでも骨折してしまうということも珍しくないのです。また今は、骨折した責任を一方的に学校やクラブに抗議してみえる保護者様も中には、おられますが、原因はもっと見え難い、普段の食生活であったり(特にカップ麺やインスタント食品)、日々の暮らし方や怪我を心配するあまりに環境整備され恵まれた施設ばかりでの運動ではないのでしょうか?骨折と言えば思い出深い、こんなお話があります。
それは何年も前のことなのですが、ある子(当時1年生)がスクール中、偶発的に後から大きい子に押されて上に乗られたために、肘を骨折してしまいました* でもその子は、「痛い」とも言わずに練習を続けてしまいました。(私が悪いのですが*) 少し経つと、身体が震え出してしまったので、お母様が私達のスクールのことを心配して下さり、病院に連れて行って頂けました。 後で直ぐに駆けつけると、やっぱり骨折していたのです!早く気が付けなくて本当に可哀想なことをしてしまいました。でも悪いことばかりではなく、嬉しいこともあったのです。それは、骨折しているにも拘らず(1週間ぐらいは安静にしていました。)その子が練習を休まないで、ギブスを付けながら参加し続けてくれたことでした。長年指導者をさせて頂いていますが、こういう選手は初めてです!最近は大人ですら、直ぐに、ここが痛い!あそこが痛い!調子が悪い!と口に出してしまうのに大した者です!また、その子供の「怪我をしていてもサッカーをしたい!」との気持ちを大切にし、リスクを承知で許して上げられる、ご両親も尊敬に値します。お母様は、私達クラブに迷惑を掛けてしまうのではと、逆にお気遣いして下さいました* きっと怪我なんかに負けない強い大人になるでしょう!
怪我と言えば、私は、スポーツマンとして、これだけは「したくない」「して欲しくない」と言うものが、強くあります。それは戦う前や後に、怪我をしていたことを公言したりしないことです。*戦ってくれた選手に対して、この上無く、とても失礼ですし、それにも増して負けた理由を怪我のせいにすることはスポーツマンにとって一番恥ずかしいことであると思うからです。もし、本当に怪我で実力が発揮出来なければ棄権するか、あるいは、どうしても試合に出たければ、戦い終わっても相手選手を称え賞賛して欲しいものです。それこそが「真のスポーツマン」ではないのでしょうか!この間、私の好きなマラソン選手の大会後のインタビューを聞いて少し残念に思ってしまいました*それは怪我をしていたことを言ってしまったからです。衰えは誰でも来てしまいますので、あえて負けを承知で頑張ることも美しい姿ですし、勇気や感動も与える事が出来ると思います。寒い雨の中、最後まで必死に走る姿は感動的でした*勝利至上主義がそうさせるのでしょうか?シドニーで走り終わっても、苦しそうな顔一つしないで、清々しくインタビューで話していた姿が懐かしいです。
スポーツマンの身体についてですが、私なりの考えと申しましょうか?哲学?そんな立派なものではありませんが、「こうあるべき」というものがあります。それは、常に「畏れ」を知らなければならないということです。いつも自分に厳しくあり、妥協を許さない上で、身体を鍛えてこそスポーツマンと呼ぶに相応しいと思うのですが・・・。「畏れ」を知らなければ、人間は楽な方に、より楽な方に逃げてしまう弱さをもっているため、どこかで怠けてしまい妥協することに慣れ、自分に対する厳しさが薄れて行くと思います。「畏れ」それは、目に見えない神様的な存在であっても良いと思うのですが、そうではなくても身近な、お爺ちゃんやお婆ちゃん、または監督であったり、先輩や後輩、尊敬する人、あるいは弱い立場の人、そして好きな人!一番効力がありそうですね!笑*何でも良いと思いますが、とにかく良い意味での恐い存在(畏れ)が必要だと思うのです。私の場合は、もう一人の自分にしています。恐い怖い「畏れ」? あるスポーツを観ていますと、お腹が出た選手がたくさんいますが、私はとても不思議に感じています?その身体からは、スポーツの厳しさや節制などの努力の跡が、何も感じ受けないからです。自分に厳しさを求められなかったり、尚且つ走れない人が、スポーツマンと言えるのでしょうか?
あるスポーツ選手のことですが、当初は、鍛え上げられた素晴らしい肉体だったものが、独立した途端に、どんどん太り始め、選手生命を縮めてしまいました。 その師匠曰く、「自分が一番上の立場となり、恐い存在が無くなってしまったために、自制が利かなくなったからだ!」と教えて下さいました。スポーツマンにとって、身体を鍛えるなかで、「精神」を磨くことは必然です!本来、スポーツの目的は何なのでしょう?今は、サッカーや野球もそうですが、お金の価値が一番で、ニュースを聞けば、何億だ!何十億だ!何百億だ!と常に騒ぎます。ある人は、「夢を売る商売だから、たくさんのお金を稼ぎ、何千万もするスポーツカーを何台も所有し、豪邸に住み、贅沢を見せることが良いことなのだ!」とおっしゃっていました。また、社会もそういう風潮があります。幸せ=お金や物ですか???(大人の責任ですよね*)そういったことが、本当に子ども達にとって夢や希望を与えることになるのか疑問です。・・・
オシム監督は言っていました。「最近のサッカーは、高額な、お金に囚われ勝てば良いとばかりに、美しいサッカーというものではなくなりつつある。 私が思うに、シュミレーションをして審判を欺いたり、ファールを見つからない様にして行うなど* しかし、我々はリスクを冒してでも、本来の美しいサッカーを取り戻さなければならない」と!確かに誰しも勝つために全力を尽くすのですが、プロの選手があれこれ汚い手を駆使して掴んだ勝利が、子ども達に夢をもたせるとは到底思えません。間違った価値観を教えてしまうと思います。私は、サッカーがどれだけ巧く、人気があろうとも、「神の手」と称し、手でゴールを決めて喜ぶ選手を尊敬できません。
いつも私は、どんなスポーツを観させて頂く時も、必ず勝敗が決した後には、敗者に目を向ける癖があります。何故か?自分でも、よく分からないのですが?笑!多分、全力で戦い負けた人には哀愁が漂い、人間の厚みや人間臭さが、滲んで見えるからかも知れませんね?心のどこかで、人生そんなに上手く行き続ける訳が無いですし、悔しい思いを、たくさん知っている方のほうが、魅力的に見えてしまいます。
昔、私が子供の頃、あるスポーツ選手(キックボクシング)で、こんな立派な方がおられました。その方は、何年もトップで活躍され、輝かしい成績を収めていましたが、年齢には勝てず、最後はKOを何度もされ、引退していきました。トップ選手にも拘らず、お金のことは一切、おっしゃらなかったそうです。何故なのでしょう・・・?祖父の空手師範から、たくさんの教えを受け、その中に「いいか、男は何か人の為に尽くしても、決して代償を求めてはならない。」また「いいか、男は信じた人の言葉を最後まで守らなくてはならないのだ。」などと家訓を伝授されたそうです。 そういうことがきっと影響していると思います。 そして、引退された後は、過去の栄光からキッパリ離れ、全く違う職業(好きだった車の修理屋さん)に就き、立派に生活されています。本当は、豪邸に住んでいても良い方だと思うのですが?その方は過去を振り返り、こう述べています。 「何もかも忘れ、何も考えず、こんな素晴らしいスポーツに打ち込むことが出来て、本当に幸せでした。また、そのなかには一切、後悔はありません*」素晴らしい!
このお話を聞かせて頂いた時に、セルジオ越後さんのことを思い出しました。 それは、以前セルジオさんのお話の中で、とても理解に苦しんだことがあったからです。と申しますのは、親の反対を押し切り難関を突破して、念願のプロサッカー選手に成れたにも拘らず、ほんの数年で辞めてしまったそうです。その理由は、プロサッカー選手の悲惨な末路をたくさん聞かされた為に、自分の将来が不安になって辞めてしまいました。私には、とても受け入れ難い理由でした。何故なら将来のことを悲観して、好きなことを途中で諦めることは自分から「やり遂げる」という人生最大の喜びを放棄することに思えたからです。
近頃、日本のプロスポーツ選手のなかにも余力を残したまま引退して行く選手が増えていますが、私の目には将来の見通しを、損得に重きを置いて考え過ぎた結果、目先で放棄している様に映ってしまいます。自身の信念や努力如何で将来は、どの様にも変えることが出来ると思いますが・・・。あるスポーツ選手の言葉です。(私なりの解釈に置き換えています。)「プロスポーツ選手はボロボロになる最後までやらなくてはならない。勝っている儘(人気もあり、活躍出来ている良い内に) 途中で辞めれば、得することがたくさんあるかも知れないけれど、それをしたらプロのスポーツマンではない。オレはここまでやった!ネクスト*次は頼んだぞと!辛くても、そこまでやらなければならないのだ!次に引き継いで行く者達のために*」・・・すみません、いつも長くて* 強制的に終わらせます。
H18.9.20 昨日、テレビで、世界を舞台に、ご活躍されてみえる、日本人オペラ歌手の、トーク番組を観ました。その方は、お話のされ方が、とても上品で分かりやすく、誠実で本物を感じさせる素敵な女性でした。 また内容も深く、最後まで時間を忘れて、真剣に拝見させていただきました。お話の内容を、少しご紹介させて下さい。
興味深かったのは、一般的にオペラ歌手は、フクヨカでなければ、あの声量のある声は出ないのではないか?と思われがちなのですが、必ずしも、そうではないとのことでした。「無理をして、フクヨカにしても、棒にクッションを巻いて、机を叩くと音が鈍る様に、人間の身体も同じなのです。」 と例えていらっしゃいました。なるほど!また、本来持っている身体の骨格自体は変わらないので、却って響きが悪くなるとも、教えて下さったのです。容姿や体格で、判断しがちなのですが、イメージや外見で、惑わされてはいけないですよね!
日本サッカー協会のエリートを養成する中でも、子ども達の骨を調べ、将来の体格を把握した上で選ばれていると聞いたことがありますが、私は、どちらかというと、そうしたことに否定的です。 可能性というものは、環境や考え方、言うなれば「どれだけ本人がサッカーのことが好きか?」 で広がって行くものであると思うからです。 素質や努力の前に、自分では、どうにもならないこと(身長)で価値評価をして欲しくはありません!?と申し上げながらも、本当は世界を相手に活躍したり、認めさせる様な人は、如何なる障害や不条理なことも、逆にエネルギーに変えてしまう位の強い気持ちが必要なのでは?と感じています。
世襲やコネなど通用しない中で、孤独と戦いながら、自分を信じて道を極めるのは、並大抵のことではないですよね!話が脱線しましたので、元に戻します♪笑!私は、日本人の体格や特質を生かした戦い方がきっとあると信じています。「空飛ぶオランダ人!」 として有名な、ヨハン・クライフさんは、こう述べています。「ボールを簡単に奪われたり、当たりが弱いことは、体重や体格の問題にされがちであるが、そうではない!戦術的な洞察力が欠如しているからである!」と教えています。その良い例として、メキシコの選手は皆、小さな選手にも拘らず強いですし、創造性豊かな面白い試合をします。 また逆に身長の高い国が、必ずしも一番強い訳ではないのですから・・・何でも上手く行かない時には、その理由(原因)を、誰の目にも明らかで、見え易い所から、安易に見つけたくなりますが、本質は結構、内面的なものであったりすることの方が、多いのではないのでしょうか? しかし、今も大切です!体格が大きくなるまで、待つことよりも、「DO NOW」 今、どうすれば乗り越え打開出来るだろう?と考え実行したいものです。オシムさんは、きっと取り組んでいると思います。
突然、私の大好きなクラシックバレエの話になりますが!笑*ある有名なバレリーナに若い生徒(ポワントクラス)が、こんな質問をしていました。それは「外国の人と日本人では手や足の長さが違います。どうすれば外国の方の様に踊れますか?」との問いに、「外国とか日本ではなく、あなたらしく踊れば良いのよ! 手も足も長くなければ、どう踊れば美しく見えるのか?私は研究努力してプリンシパルまでになることが出来ました。 外国とか日本に囚われてはいけません。」と教えていました。私はサッカーも同じだと考えます! 余談ですが、私が子どもの頃に聞いた話なのですが、プリマを目指していた、オードリー・ヘプバーンは、身長が170センチを超えた時点で、バレエの道を諦めたと聞いて、とても不思議に感じたことを思い出しました。 身長があればあるで困るし、なければないで、悩むのですから、人間って面白いですね?
先月に、自転車の家庭教師で、お世話をさせて頂いた、可愛い女の子(4年生)から、「バレエの発表会があるので観に来て下さい」という手紙を貰いました。そこで、何とか時間を取り、芸創センターまで行って来ました。小さな子どもから大人まで、一生懸命に踊っていましたが、みんな大変美しく、幻想の世界の中にいるような気持ちにさせて頂けました。私は、有名なバレエ団を何回も観ていますが、こういう発表会も観客との距離が近くて、良いものだなあと思いました。 ありがとうございました!
オペラ歌手のお話に戻しますが、番組の終わりに、ある質問者が、こんなことをお聞きしていました。「今まで、一番辛かったことは何ですか? また、それをどう乗り越えられましたか?」との問いには、こうお答えになられました。「イタリアへ勉強に行った時に、私は必要とされていないと感じた時でした。 それは、ヨーロッパのオペラに、東洋人はいらないという考えがあることや、またコンクールに出ても、最初の一次審査の段階で、東洋人は、全て落とされる現実を、目の当たりにした時が一番辛かったです* そして、それを乗り越えられたのは、ただただ歌が好きということと、一人でも、私の歌を聴いてくださる方がいるのであれば、歌い続けたいと想い考えたからです*」と教えて下さいました。
海外に出て行き、沢山のご苦労があったのでしょう*オペラ歌手の方とは、比べものには、ならないのですが、私も仕事でアメリカに行った時に、カフェやレストランで、あからさまで嫌な対応を何度も受け、自由の国に失望した経験がありました。 私に就いてくれた通訳の方(私の前の通訳は、久米 宏さんだったそうです!ラッキーでした。私は、久米さんのファンなのです!笑)がおっしゃるには、全ての人ではないが、東洋人に対する偏見や差別が、まだまだ根強くあることや、日本と戦争で戦ったという爪跡が、その土地柄によっては、間々あるとも教えて頂きました!
以前、読んだ手塚治虫さんの本の中で、アメリカ〜カナダ滞在中に、黒人の方から差別的な扱いを受けビックリした!アメリカに住む黒人の方々は、差別され続けた長い歴史がある為、そういうことに対しては、達観した考えがあるものと思っていたそうです。 などと書かれていましたが、その感想を思い出しました。手塚さん曰く、「人間と言うものは、自分がされた嫌なことは、他人にはしないものと思っていたが、そうではないことに気がついた。 理不尽に、いじめられた人間は、自分よりも弱い相手を見つけ、同じことをしてしまう弱い生き物である」と*そして、それは多分、打ち砕かれた自分の尊厳や誇りを回復させたいと願う、唯一の方法かも知れませんね!とても責める気持ちにはなれません。悲しいことですが* 子ども達には、この様なことがないことを願っていますが、しかし、またどんなことにも挫けないで、前向きに逞しく生きて行って欲しいと思っています。
最近スクール中に、よく戦闘機が飛ぶようになりました。子供達も興味津々で私の話は、そっちのけで見ています!笑 。私は飛行機の轟音を聞く度に、戦争の足音が聞こえて来ている様な気がしています。よく「音楽に言葉はいらない♪」「芸術には、言葉は必要ない!」と言われますが、人間同士が戦争をしないで仲良くしていくためには、分かり合い、認め合い、許し合うことが大切です。そのためには、コミュ二ケーションが最も重要ではないのでしょうか?私は常々、サッカー指導の中に於いても、「言葉は、コミュ二ケーションの道具」なんて言っているのですが、医学や科学は日進月歩で、発達しているにもかかわらず、語学の進歩は、変な進化を遂げているとしか思えてなりません!「普通に上手い」とか「微妙にやりたい」などです!笑 私は語学については、ある一つの考えがあります!それは、「世界共通語」を作れないかなあ?という事です。なぜ誰も提案しないのか?私の中ではとても不思議です。英語が世界の共通語だと言われる方もいるのでしょうが、本当にそうでしょうか?私達の身近に英語が堪能な方が何人いるでしょう?私の近くには、元クラウドコーチのマリエ先生ぐらいです!笑(マリエ先生、お元気ですか?ラグビーの通訳は大変でしょうが、頑張って下さい。早くテレビに映って下さい!笑)世界中から語学学者に、お集まり頂き、誰でも簡単に覚える事が出来、子供でも使える様な「地球語」を生み出すのです!日本からは、金田一さんを、推薦します!笑 言葉もアラビア数字の様に、共通になれば、コミニュケーションが沢山取れて、国と国との利害やエゴは薄まって行くと思うのですが?・・・。
H18.7.18 先日、日本サッカー協会が発行しています保護者様向けの本を入手しました。そのなかで、私が常々考えていることが沢山載っていましたので、私の意見も織り交ぜながら、少しご紹介させて下さい.。
(1) 「自立」まず自立の第一歩は、準備や用意を自分自身でさせることが大切であるとのことです。何から何まで親がしていては、「ありがとう」という気持ちさえ芽生えませんし、準備不足や忘れ物で、困った経験がなければ、いつまでも自分の責任を自覚しません。あるサッカー合宿で、スパイクを忘れた子がいましたが、その子に聞くと、いつも母親が用意をしているので「僕のせいではない」とのこと。親が電話をしてきて届けに来ると言いますが「運動靴でやらせるから結構です。」とお断りをしました。その子は、3日間すべりやすい運動靴で、やりにくそうにしていましたが、最後まで練習しました。その後、その子は決して忘れ物をしないようになり、必ず自分で用意をするようになったそうです。
良いお話ですよね!クラウドでは時々、すね当てを忘れてくることがあります*すね当てがないと試合に出場出来ませんので、子ども達によく注意しておきます。爪を切っておくこともですね!最近では、キツイようですが、忘れ物をすると「じゃあ出来ないねえ」と言う様にしています。その場を凌がせる様なことが、本当にその子の未来にとって良いことなのか?いつも葛藤があります*真の優しさとは厳しさを伴うものですよね*いつか分かってくれると信じています。
(2) 「主役は子どもで、親はサポート」重要なのは子ども達で、親のやりがいや満足、大人同士のつながりを保つためではない。クラウドでも何件か、親同士の意向で移籍して行った子ども達がいましたが、その後、私のスクールに遊びに来てくれて、「僕は辞めたくなかった」と言ってくれたり、またその友達から「本当は辞めたくない」と言って学校で泣いていたよ*と話を聞いた時には、自分の力の無さを呪いました。本当にごめんなさい*
(3)「身代わりアスリートにはしない」 大きな期待をかけ過ぎ、期待される像と現実の自分とのギャップに苦しむことになり、自殺に追い込まれた実例もあります。有名クラブに受かり順風満帆だと思っていたのに、その後、年代が変わるごとのセレクションで不合格になり、目標を失ってしまったそうです*本来なら、どんなクラブでも小学生の選手育成をするのであれば、最後まで責任をもってお預かりするのが、責務だと私は考えますが・・・色々な考え方があっても良いのでしょうか?こんな話も私の身近にありました。
生涯に亘り長く楽しみ続けていけることが、とても大切なのです。今日は休みたいと言ったからといって、直ぐに「やる気が無い」などと極端なことは、決して言わないで下さい。余裕をもって、見守ることが必要です。スポーツでは当然、勝ったり負けたり、選ばれたり選ばれなかったりします。また、ちょっとしたセレクションで選ばれると、あたかも将来が保証された様に思うのは、大きな勘違いです。
当クラブでも何人か、有名クラブのセレクションに受かり、移籍していった子ども達がいましたが、今まで伸び伸びと自分のサッカーをしてきた子が、未来ではなく現在を重視した、今勝つためだけと思われる様な、トレーニングコーチされ、持ち味が消えて、無難な普通の選手になってしまっている姿を見て、とても残念に思ったこともありました。たとえ有名クラブではなくても、個性溢れる独創的なプレーや誰にも負けたくないという強い意志と粘り強い頑張りがあれば、必ず誰かの目に留まります!
県の代表(県トレセン)には有名クラブ出身ではない選手もたくさんいるのです。却って有名クラブでは目立たなくても、普通のクラブで自分の個性を生かしたサッカーをしていることの方が、目に留まり易いのかもしれませんね!日本サッカー協会には各県や各地区に必ずトレセンがあり、クラブの推薦があればセレクションを受けることが出来ます。クラウドからも、数名受かり、県トレセンに行った子もいました。中田選手は、中学2年生のときに地区トレセンから見出されたと聞いています。しかしながら、何もトップになるだけが、価値ではありません!私はサッカーが大好きという純粋な気持ちを価値の一番にしたいと考えています。
自慢話みたいで、恥ずかしいのですが先月、ある勉強熱心なコーチ(県代表トレセンU−15監督の下に勉強中〜)から、ヤスユキコーチの育てた子ども達は、変な癖がついて無く、大変教え易いと、言ってくれました!こんなに嬉しい言葉はありませんでした。何も教えてなかったりして?(笑) 私の指導では、必ず余白を残す伝え方をする様に気をつけています!と申しますのは、私が全て正しいとは思いませんし、またサッカーは、進化し続けています。もしかしたら、子ども達の発想や創造性の中から、新しいサッカーの要素が、生まれるかもしれないからです。
10年前に、NHKの番組で南米の方が日本の田舎で、子ども達にサッカーを指導しているドキュメンタリーをテレビで観ました。みんな大変楽しそうにサッカーをしていまして、やらされるサッカーではなく、自分達でサッカーをしているという喜びを私は感じ受けたのです。番組の中で南米の指導者がおっしゃっていた言葉は、紛れも無く私がいつも考えていたことだったので、心から共鳴しました!それは「日本の子ども達は、器用で教えれば、大抵のことは出来てしまうのだが、でも面白くない?どうしてかというと、狭い範囲のサッカーらしい練習に取り憑かれているために、楽しいサッカーが出来ないのだ」と言っておられました。そのコーチの練習方法は、またユニークで虫になって走るとか、鬼ごっこの南米版の様な練習でした!
私も、指導者の勉強中に、様々な指導方法を拝見しているなかで感じたことは、トレーニングの中身は何となく似かよったものになってしまうものだなあ?と思いましたので、私は、他のスポーツや遊びの中からヒントを貰い、トレーニングのなかに組み込むことにしたのです!まさに南米の指導者が進言していることでした。
本の中にもこんな記述があります。「なんだか知らないけど鬼ごっことか色んなゲームをやっていてサッカーらしいサッカーを教えてくれない」とクラブを移っていった親子がいましたが、サッカーには、たくさんの要素があり、それを身につけさせるためには、色んな方法があるのです!身体の使い方や敏捷性、判断能力を養うには、鬼ごっこの様な遊びは最適な練習なのです。
私の場合は、もっと幅広く、テニスボールやラケットを使ったり、縄跳びや体操、または柔道の受け身なども取り入れて、練習して来ました。そういえば、あるときに、高校でサッカーのご指導をされてみえる保護者さまから、スキルが低いのではないか?とのご批判を受けましたが、サッカー指導者ですら、こう感じてしまうのですから、サッカー経験の無い方には、尚更、指導の意図は、お分かり難いかと存じます。
このように一見サッカーに直結していないことも、長い目で見て大切なことに時間をかけて、トレーニングしているのです。
(4) 「トライアンドエラー」 勝敗が一番分かりやすい価値ですが、勝った成功経験だけが全てではない。負けて学ぶことも沢山あるのです。手段を選ばずに勝ちに行こうと思えば出来てしまいますが、(ボールを外に出し続けたり、全員をディフェンスに就かせたり・・・など)そんな勝ち方に何の意味や喜びがあるのでしょうか? しかし、クラブチームの中には、「勝たないと部員が入らない」「親がやめさせてしまうので心ならずも勝ちを重視する」というクラブも現実としてあります。クラブの運営面を優先に重きを置くのか?または、子ども達の将来をトータル的に見ることを重視しているのか、保護者様のチェック機能が必要です。小学生のうちは、あまり勝ちに、こだわらない方が良いと、大半の指導者は分かっていますが、口には出せません!言ってしまうのは、私ぐらいです!笑
コーチングについても同様です。選手に対して「お前はそこにおれ!そこに立ってればいい!早く蹴れ!外に蹴りだせ!何回、同じことやっとるんだー!」など指導者とは思えない言動も、試合の時などに、しばしば耳にしますが、残念でなりません。指導者は、いつも冷静沈着に自分をコントロールし、また紳士でなければいけません。子どもは、ロボットではないのです。
前述の様な発言をする指導者を評して、「厳しくて良い」なんていう方も、おみえになりますが、ハッキリ申し上げて間違いだと思います。自分自身をコントロール出来ないのに、子ども達を上手くコントロール(指導)するなんて出来ませんよね?保護者様もよく注意して見て下さい。私も、指導に関しては、特に熱いものが沢山ありますので、一番気を付けなければならない存在かもしれません!笑
(5) 「みんな仲間」 声援の熱が入り過ぎ、それが昂じて相手チームに罵声を飛ばしたり、勢いあまって味方の子どもにまで、怒鳴ってしまう大人もいます。クラウドでも、何年も前にある試合中、味方の子どもが失敗をしましたら、「何、あの子!」と批判してしまったことがありました。私はその場に居なかったので、注意を促がすことが出来なく申し訳なかったのですが、すぐ近くにいて聞いてしまった、その保護者様のお気持ちを考えますと、今でも胸が痛みます。
サッカーは仲間がいなくては出来ません!仲間と助け合うことこそが、サッカーの一番の魅力なのです。チームのみんなや相手チームもそうですし、レフリーの方もそうです。皆スポーツを楽しみ愛する仲間と考えて頂き協力して子ども達により良い環境を作ってあげましょう!
(6) 「サッカーを知っているお父さんへ」 このテーマは殆ど書き写します!若い頃、ご自分でもサッカーをやっていて、ついつい子どもに口を出してしまうことがあります。「走れ!」「そうじゃあない!なんでおまえは・・・」またコーチに対しても、「オレが若い頃にはもっと・・・」「そんなことをやっていてはダメだ!」「もっと厳しくしないと」「戦術練習が足りない」などと歯がゆさを抑えきれないお父さんもいますが、サッカーも年々進歩し大きく変化しています。
コーチはコーチに任せて、ご自分が経験された良いことを、どうか、お子様に伝えてあげてください。
(7) 「根本的な部分へのアプローチ」 日本サッカー協会では、日本のサッカーを強くするために初めのうちは、プレー(テクニック)ばかりに目を向けてきました。しかし最近になって、「判断」が足りない事に気づいたのです!と書いてあります。私もサッカーだけではなく色々な場面で感じることがあるのですが、例えば誰かに何か仕事をお頼みする事があるとします。そうした時、頼まれたことを、そのまま行うことは出来ても、何か状況が変化した時に自分自身で的確な判断が出来なくて困っている姿をよく見かけてしまいます。また、ある本の中で、東大生が研究室でピザを注文して、人数分(7等分)を切れずに、ずーと考え込んでしまっている姿を見て、先生が愕然とした!なんていうことも、自分自身で判断ができないことを象徴しているお話ではないのでしょうか?
「自分で考え判断して行う」という根本的な入り口の話になるのですが、私の「意地悪指導」の話をお聞き下さい。それは、子ども達から、よくスクール中に「くつ・・・?」とか「ひも・・・?」と言われます。見れば、靴の紐がとれていますので、直ぐに「結んで欲しいのだな?」と分かるのですが、あえて「くつ?」「ひも?」と聞き返すようにしています!それは、今風の助詞を省く日本語に少し抵抗したいという気持ちと、それ以上に、子ども達に「考える機会」を沢山与えたいとの想いからなのです。
この前も、トモヤくんという子が、私に「先生〜!キツクシテ?」と言ってきました!(新手の出現です!笑)そこで、私は「はい!じゃあ〜後ろ向いて???」と言い、後ろ向きになったトモヤくんを「ギュ!」と抱きしめて「キツク」してあげました!笑 トモヤくんは、とても慌てまして「そっ?そうじゃあなくて!くっくっくつ!くつのひもをキツクして」とちゃんと言ってくれたのです。とても可愛かったです*些細なことかも知れませんが、こういった地味で地道なことを繰り返していくことで、子ども達に良い習慣が身についてくれれば?と考えるのですが・・・。
よく「無くて七癖、あって四十七癖」と言います。癖と習慣を一緒にしてはいけないのですが、考えを言葉に出して日々表現していくことは、論理的に考える良い習慣づけの一つの方法だと思います。本の中には、子どもの言葉は、印象や感覚的な言葉!「ドバー!」や「ズバー!」など、オノマトぺ(擬音語)だけで全てを語ろうとすることが多いので「察しの良い大人」であることは、子ども達が、「自分で物事を深く考えない様になってしまう」と、注意を促がしていました。
サッカーでは、目まぐるしく状況が変化する中で、最善の判断をして、プレーしなければなりません。その判断は自分自身で決めるのです!「考える力と判断する能力」を引き出すためには、サッカーの指導だけではなく、日常の家庭生活の中でも積極的に言葉を使って、考える機会を与えてください。そして、私達クラブと連携して頂き、車の両輪になって育んで下さい。宜しくお願い致します。
まだまだ、お伝えしたいことが沢山ありますが、一度この辺で、区切りをつけさせて下さい。キャンプも控えていますので!笑 長文で、お読み難かったのではと、お察し致しますが、何卒ご容赦下さい。失礼しました。
H18.7.4 nakata選手が引退してしまいますね*ミーハーではない私ですが、中田選手は数少ない好きなサッカー選手でした。その理由は、今風ではないシッカリとした言葉で真面目に受け答えをするところや、考え方、あるいは生き方に共感する部分が沢山あったからだと思います。サッカーのプレースタイルも、審判や相手の選手に対しては特に紳士的で、ケンカしたり文句を言ったりしません。また、蹴られて倒されても、直ぐに立ち上がり、痛そうな顔1つしないところも、尊敬に値します!そういう選手にも拘らずチームメイトと上手くいかなかったとの報道がありましたが、私は不思議に思いませんでした。
その理由は、他の日本代表選手からは気迫や必死さが、あまり伝わってこなかったからです!洩れ聞きましたところ、派閥みたいなものがあって、その一派はテレビゲームをホテルや移動のバスにまで持ち込み楽しんでいたそうです。そういう選手とは、上手くやれませんよね?もうひとつ、私はガムを噛んで試合に出るのも好きにはなれません。世界中の人々が観てくれている前で、自分の人生を賭けて戦える喜びを感じていないのでしょうか?中田選手の気持ちを考えますと、私も目頭が熱くなってしまいます*お寿司屋さんにみんなを誘ったお話ですらも、悲しく感じてしまいます。みんな仲良くと言いますが、ある意味、自分を削り、その場に居続けるのは、とても苦しかったのではないのかと想うのですが?・・・
試合の前後、よく子ども達に言うのですが「サッカーは一人では戦えません、また一人だけが頑張っても勝てないのです。全ての選手がどうしても勝ちたいと思う力が大切なのです!」「たとえ負けたとしても、全力で戦ったのであれば恥ずかしくない!胸を張って帰り、また練習してリベンジすればいい!」と・・・先週、先々週と日曜日にフジパンカップ(アンダー12)の試合がありましたが、ドシャ降りの雨の中、みんな必死で戦い1勝2敗でした。4年生もたくさんいるにもかかわらず、本当によく頑張り、みんなに感動を与えていました*点差がひらいても「1点でもいいから取り返すぞ!」というジュンロウくんの大きな叫び声が、今も私の耳に残っています*そして、本当に1点取り返してしまいました!また、翌週に、その相手が負けたチームに勝ってしまったのです!本当に大した者です。
更に感心しましたのは、雨の中ハーフタイムなどでもクラウドだけは屋根の下に避難しないで、みんな激しく降りつける雨など気にもせず、「気持ちいい!笑」と言って、堂々と逞しく立っている姿は、世界中のどんなチームよりもカッコ良く見えて眩しかったです*誇らしく思いました。こんな子ども達に携わることが出来て本当に幸せです*こういう精神がクラウドイズムとして根付き、連綿として受け継がれていって欲しいものです。
H18.6.21 先週の水曜日に、少年補導委員会の総会に出席して来ました。会長のご挨拶は、今までに拝見させて頂いたことの無い様な、憂いの表情を浮かべられ「今の日本は、どうなってしまったのでしょう?」という、お言葉からはじまりました。戦争の無い、平和で豊かな日本である筈なのに、殺人事件は多発しています。署長さまのご挨拶の中でも、青少年の犯罪が特に増加していると教えて下さり、またそれ故に私どもの存在が重要になって来ていると、叱咤激励を促がされました。こうした世の中になってしまったことが、どんな原因で何故なのかは分かりませんが、しかし大人の責任であることに間違えはないと思います。
最近、若者が沢山働いている、ある飲食店の経営者とお話しする機会がございましたが、そのなかで今の子は、「オレ的」にはとか「ワタシ的」にはを、多様して自分の正当性を主張するばかりで、相手の存在や価値観を認めない、「ジコチュウ」を通り越し、「自己のみ」の考え方をしていると言っておられました。その上、自尊感情が旺盛なわりに、覇気が無く、挨拶や返事1つも出来ないのに、一体、何処に裏打ちされた自信なのかサッパリ理解できないのだそうです?ではそういう若者が多くなって来ているのであれば、私達の何処がいけなかったのでしょうか?もしも、そういったことの延長線上の先に短絡的な殺人事件があるとすれば、傍観してはいられません。
辰弥先生の意見は「インターネットがいけないのでは?」と言っていました。どんな情報も知りたいと思えば苦労しないで、いつでも手に入りますし、また誰かを頼って聞かなくてもよいことが、人との拘りを面倒と考え、他人軽視に繋がるのでは?との見解でした。一理あると思います!「知っている、知らない」ということが、人間関係にどう影響を与えるのか?問題を絞って考えてみますと、どんなことでも人より早く知り得ていれば、何かと有利に働く事は事実だと思います。しかし、必ずしもその結果が良いとは限りません。村上ファンド然りです!私の小中学生の頃を思い出してみますと、知らない情報を、いち早く知っていたり、行っていたりすると、同級生より大人に見えて一目置かれたりもしていました。特に悪い情報は尚更、興味をそそり、みんなの注目を集めていたのです。そうしたことが誤解や錯覚を生み、人よりも偉くなった様な気分になっていたと思います。「知らない人=イコール軽視する」の構図かも知れませんね?
今は、お金の価値感も随分変わった(楽をして儲けようとする*働かないでお金を貰おうとする)と思いますが、それよりも私が強く感じますのは、人様に対する価値評価を簡単にする時代になってしまったということです。その代表的な存在が学校の先生だと思います。確かに私たちの時代にも問題のある先生はいるにはいましたが(私の方がもっと問題のある生徒でした!笑♪)その先生を子どもの前や公の席でバカにしたり、皆で吊るし上げ辞めさせようという発想は、無かったと思います。しかし今はあるそうです!人より早く気付き、人前で批判を出来る人が有能とでも思われているのでしょうか?私の子どもの頃の躾は、「人のことは言うな」「人は人、自分は自分」!笑 という様に、批判することを恥として捉えてきました。それがいつしか「個性を出さなければならない」とか、「民主主義は自由なんだから」というものを履き違えて解釈してしまっていることが、他人軽視や安易な人物評価に繋がっていると感じてしまいます。
人間が集まれば必ず問題は起こると思いますが、社会は皆で創るものであるならば、起こったことに対して罵声を浴びせたり、揚げ足をとるようなことをしても、何の解決にもなりません。憎しみや遺恨を残すだけです!問題があったら、相手の立場も考え、理性的に話し合い、お互い許し合うことを認めた上で問題解決を図ることが望ましいと私は思います。最後に、ある和尚様が大人に向けた、お言葉がありますので、ご紹介させて下さい。
子どもの問題は全て大人の問題であり、大人の責任です。人間として生き方の根本を教えておかなかった大人の責任です。「悪いことはするな、善いことはすすんで行え」「あいさつは、きちんとしなさい」「何でも欲張らずに足ることを知れ」「他の人への思いやりを忘れるな」「弱い者をいじめてはならぬ」等々、子どものときに教えておかなければならない人間の生き方を、きちんと教えなければならない責任が大人にはあるのです・・・私が最近、骨身に沁みた言葉でした。
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